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吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)

静岡で生まれ育った方が案外わかっているようでわかっていないことが、戦国大名今川義元や今川氏が地元でありながらなぜ人気が無いのか、今川氏にあまり関心も寄せないのかということです。
静岡・駿府といえば、まず第一に思い浮かべるのは徳川家康であり、居城で大御所政治を行った駿府城の城址や家康の墓がある久能山東照宮が名所としてあげられます。
いずれも徳川家にまつわる場所ですが、それでは今川氏といえば、知っている人は知っていても誰もがわかるような名所は少ないのではないでしょうか。
戦国時代を題材にしたドラマで今川義元といえば公家かぶれで太っていて馬にものれず惨めに敗戦した武将として描かれることが多かったと思います。
最近のNHKの大河ドラマ「風林火山」では義元役をイケメン(二枚目)の谷原章介が演じていて、期待を持たせましたが、イケメンは良かったのですが、度量が狭く、ちょっと嫌味な人物のように描かれていたように思います。
今川氏は室町時代から戦国時代にかけて、守護大名及び戦国大名としてこの地方(駿河・遠江)を治めてきました。
多くの地方で守護大名がその家来筋に乗っ取られたり、他から侵略されて新しい主人を迎えた中で、この地方は一貫して今川氏が治めてきたのです。
まして室町時代には「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」といわれたように、足利氏一門の吉良氏(忠臣蔵で有名な吉良上野介の一族)の分家として出発した今川氏は名門中の名門でした。
またその勢力も本家筋の吉良氏の三河も併合し、当時の世間の目線でみれば、天下に一番近い大名家だったと思われます。
しかしながら、今川氏9代目の今川義元は文武両道の郷土の英雄であるはずが、桶狭間の戦いで敗れたことにより、義元のみならず、今川氏の名声は地に墜ちて、地元静岡でも人気がないというか、恥さらしと思っている人もいると思います。
もちろん、かといって、桶狭間で敗れていなかったなら、織田信長のように天下統一の道を進んだかというと大いに疑問なのですが、一度の敗戦でその名声が地に墜ちて、後世の地元民までその功績を忘れてしまうというのはあんまりではないかと思います。
今川義元の頃の今川氏は駿河、遠江の他三河地方も治め、その中心地であった駿府はおおいに栄えていたわけであり、このような200年以上にもわたってこの地方を治めてきた影響が現代に残っていないはずがありません。
それで静岡市周辺の今川氏にまつわる名所・旧跡を紹介しながら、今川時代を振り返ってみようという連載企画を行うことにしました。
今川氏の研究で有名な静岡大学の小和田哲男教授によれば、駿府城跡の発掘で、今川氏の拠点といわれる今川館らしい建物跡がみつかったとのことで、今後その発掘が進めば今川氏についてももっとわかってくると思います。
それにしても今川氏の館の跡に駿府城を建てたことが本当だとしたら、徳川家は意図的に駿府の地から今川色を一掃しようとし、そればかりか、その功績を忘れさせようとしたのではと思うのですが、その意図が残念ながら現代にまで受け継がれてきてしまっていると思うのですが、どうでしょうか?
前置きが長くなりましたが、第1回目として室町文化の様子を今に伝える吐月峰柴屋寺(とげっぽうさいおくじ)を紹介させていただきます。

現在の静岡市駿河区丸子泉ヶ谷にある天柱山吐月峰柴屋寺(てんちゅうざんとげっぽうさいおくじ)は、今川氏6代当主義忠、7代当主氏親に仕えた連歌師(れんがし)の宗長(そうちょう)が室町時代中期の永正元年(1504年)55歳で草庵を結び、余生をおくったところです。
連歌は日本の伝統的詩形で、室町時代に大流行しました。
宗長は現在の静岡県島田市の出身で当初今川氏6代義忠に仕えましたが、義忠の死後、京都に上り当時の連歌の第一人者である宗祇の弟子となりました。

吐月峰という名前は竹の間から月が「吐き出されるように」昇るようにみえたことからつけられたといわれています。
宗長は師匠の宗祇とともに全国を旅したそうですが、有名な「急がば回れ」の語源はこの宗長の「もののふの矢橋の舟は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」だそうです。
急いでいる時は琵琶湖を舟で行くより瀬田の橋を回ったほうがいいという意味からきてます。
この有名なことわざの由来がこんなところにあったとは、宗長という人は当代随一の文化人だったのでしょう。

この説明文によれば、寺の宝の一つとして、「文福茶釜」があげられます。タヌキが茶釜に化けたという伝説で有名ですが、この寺の茶釜は将軍足利義政より賜った物で、こちらが本物だそうですが、どうでしょうか。
一般的には「分福」と書かれ、字も違うのですが、真相はわかりません。

英語の説明文です。
庭園は国指定の名勝と史跡に指定されているため、海外からのお客様にも配慮しておられるようです。
寺の説明の他、地元丸子(まりこ)のとろろ汁の説明もかかれています。

この池の右奥には苔むした岩がおかれ、枯山水(かれさんすい)という様式により、この池に水がそそぎこむことを表現しているとのことです。
池の両側には梅の木が植えられていて、この写真をとった4月には何の花もなかったので、花が咲く2月頃にまた訪れてみようと思います。
この池の奥にはサルスベリが植えられており、夏にも花が咲くように考えられていますが、この庭園では4月は花が少ない時期のようです。
なお、この池は北斗七星をかたどっているそうです。
発想のスケールがかなり大きいようです。

花が少ない中で唯一きれいに咲いていたのが、左の写真のミヤマツツジです。残念ながら、鮮やかなピンクが全く表現されていません。
写真の真ん中に月見岩という岩があり、ここに座って、写真手前の方向をみて、竹林の中に月が昇る様子を眺めたようです。

写真中央が上の写真で説明した竹林です。
ここの竹は京都の嵯峨野の竹をもってきて植えたものだそうです。
室町時代の駿府(静岡)は、応仁の乱などで京の都が戦乱となったため、今川氏を頼って多くの高級貴族が移ってきて「東国の京」といわれたそうです。
やがて京にもどる貴族もいた中で、こちらに定住した貴族もいたようです。

残念ながら、これも写真が今一つですが、写真中央はるか向こうに、丸子富士と呼ばれる山がかすかに見えます。
この庭園は周りの風景を庭の一部とする借景といわれ、この南方の丸子富士の他、西方の天柱山(てんちゅうざん)までも庭の一つと考えています。

宗長の木像です。宗長は師匠の宗祇が亡くなった後は連歌界の第一人者となっただけでなく、多くの武将や公家とも交流があり、今川氏の外交官や軍事顧問の役割もはたしていたようです。
晩年は今川氏7代の氏親の正室寿桂尼や高僧の雪斎が主に今川氏の舵取りをしていたため、出番がなくなってきたようで享禄5年(1532)3月16日85歳で亡くなりました。
竹藪の中に師匠の宗祇と並んで宗長の墓があるとのことでしたが、今回は確認できませんでした。
当代随一の文化人が地元出身で地元で活躍したとは嬉しい話ではないでしょうか。

この丸子泉ヶ谷というエリアはこの吐月峰柴屋寺の他、伝統工芸を体験できる駿府匠宿などの施設、とろろ汁を食べることができる店などちょっとした文化エリアとなっています。
ぜひ一度訪れてみてください。

帰りがけに丸子城の案内図を見つけました。
それによると全国屈指の山城とあります。
「全国屈指」といわれると見てみたくなりますが、ここも今川氏に関連した旧跡です。
いずれ紹介させていただきたいと思います。

名称 臨済宗妙心寺派 天柱山吐月峰柴屋寺
住所 〒421-0103 静岡市駿河区丸子3316番地
電話番号 054-259-3686
FAX番号  
拝観料 大人300円、小人200円 
行き方 JR静岡駅から藤枝駅行きバスで20数分吐月峰入口バス停で降りて徒歩10分、静岡市の市街地から車で20分ほどです。
先に紹介させていただいた誓願寺の手前になります。
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今川氏発祥の地記念碑

前回の内容の「御所(足利将軍家)が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」という言い伝えについて少し補足させていただきます。
これは将軍職及び足利宗家の相続権の順番をいったもので、足利氏に跡継ぎがいなければ、吉良、今川の順番に将軍及び足利宗家の相続権が与えらるわけで、吉良、今川は江戸時代でいえば、尾張、紀伊、水戸の御三家のような存在だったと言えると思います。
吉良は足利氏の嫡子(長男)から出発した家系であったために足利一門の中では特別な存在であり、その吉良から分家した今川も別格の立場を与えられたわけです。
さて今川時代を振り返るにはやはり、そのルーツから始めるべきだろうと考えていたところ、愛知県に行く機会がありましたので、今川氏発祥の地に行ってきました。
静岡市やその周辺の旧跡ではありませんが、今川氏ゆかりの地ですので、ご覧下さい。

今川氏発祥の地の記念碑は、現在の愛知県西尾市今川町にあります。
織田、豊臣、徳川だけでなく、われらが「今川」も愛知県出身かと思うとちょっとくやしい思いですが、今川氏が花開いたのは静岡に来てからなので、それもよしとしたいと思います。
それにしてもこのあたりは、少なくとも鎌倉時代のころから「今川」だったわけで、近くの交差点の標識にも「今川町」となっていました。
もっともその間ずっと「今川」だったのかは検証していません。

今川氏発祥の地の記念碑は、西尾市の西尾中学校の敷地の南側に建てられています。表の道から狭い道を少しはいったところで、車を止める場所もありませんが、のどかな場所なので、少々写真を撮ったりしても誰も通りませんでした。
西尾市の観光案内地図にもちゃんと観光コースとしてはいっています。
といってもこの場所は他には何もないところですが。
余談ですが、今回訪れた西尾市も吉良町も市役所・町役場に行って、観光案内などをもらいました。
観光案内所がわからない場合は、市役所や町役場に行けばなんとかなるようです。

今川氏発祥の地記念碑の説明文
承久の乱後、足利義氏が三河国の守護に任ぜられた。
義氏の嫡子長氏は、義氏が足利へ帰った跡式(あとしき-家督のこと)を継ぎ、吉良荘にちなんで吉良氏を名乗った。吉良家は二代満氏へと伝えられた。
今川荘は長氏が少年時代に義氏から装束料として贈られた地で、長氏は次子国氏に伝えた。国氏は荘名の今川を名字とし、今川氏の祖となった。
今川の地名は荘名の名残りと伝えられる。

昭和五十九年一月 西尾氏教育委員会

足利義氏 --- 吉良長氏 --- 吉良満氏(長子)
                  |
                  -- 今川国氏(次子)
このような関係になります。
なお、長氏と国氏は親子ではなく、おじとおいの関係であり、国氏が長氏の養子にはいったとの見方もあります。

この記念碑の隣に、今川氏で歴史にもっとも名を残したと思われる今川貞世(さだよ 了俊ともいわれる)の墓石がありました。
というよりここに了俊の墓があるので、今川氏の記念碑が隣に建ったのだと思いますが。
今川貞世は下の墓誌にも書かれているように、今川範国の二男なので、今川氏の嫡子ではありませんが、遠州今川氏の祖となった人です。
九州探題として室町3代将軍義満の時代幕府から任命され、九州を平定し、大きな功績がありましたが、中央政府の抗争のあおりを受け(権力が大きくなりすぎたという面もあるようです)、失脚し、晩年を不遇のうちに過ごしたようです。
静岡県西部袋井市の海蔵寺にも墓所がありますが、その建立は1747年であり、こちらの西尾市の墓所と同じ時期です。この時代に名誉回復するようなことがあったのでしょうか。
歌人としても有名で今川氏最大のヒーローともいえる人物なので、またとりあげる機会を持ちたいと思います。

今川貞世墓石の墓誌

今川貞世は今川氏の祖、国氏の孫にあたる範国の二男で、南北朝時代の人である。遠江国守護職、九州探題をつとめた。
武将として功のあったほか、冷泉家歌風を伝える歌人として名をなし、また、文人としても知られた。のち入道して了俊、徳翁とも称し九十歳を生きた。
(延享二年となっているので1745年建立のようです。)

この西尾市にある今川氏発祥の地に行くことが今回の第一の目的であったので、西尾市のお隣の吉良町にある吉良氏の菩提寺へ行くのはどうしようかとも思いました。
以前行ったこともあるし、吉良様のお墓に行っても仕方ないかなと思いながらも、ついでだからと行ってみると、これがいろいろ収穫がありました。
長くなりますので、今回はここまでとして、吉良氏については次回とさせていただきます。
ところで西尾市といえば、後で調べてみると、あの今川義元公の首塚があるとのことで、知っていれば、そちらにも行ったのですが、この連載が義元公のところまで行き着くのはだいぶ先のことなので、後日訪れたいと思います。

名称 今川氏発祥の地記念碑
場所 西尾市西尾中学校の南側
行き方 名古屋鉄道西尾駅から徒歩20分ほど、車なら東名高速道路音羽蒲郡ICから40分ほど
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華蔵寺(けぞうじ)他

前回今川氏発祥の地を紹介させていただきましたが、いつごろのことかという内容が抜けていました。
今川氏の祖となった吉良長氏の生まれが1210年、その息子の今川国氏の生まれが1243年とされていますので、鎌倉時代の初期から中期にあたる時代のこととなります。
この記念碑を訪れた後、お隣の幡豆郡(はずぐん)吉良町に向かいました。
なぜ、吉良町にいったのかといえば、ついでにというのが正直なところですが、今川氏の本家筋にあたる吉良家の墓所をもう一度見ておこうという気持ちもありました。

吉良氏の菩提寺である華蔵寺(けぞうじ)は吉良町の町から離れたやまあいにあります。
寺の駐車場には左のような観光地図がありましたが、「名門吉良氏 盛衰のロマンを辿る」とあります。
このあたりは後で紹介する城跡もあり、ちょっとした歴史のロマンを感じさせる地域となっています。

薬医門(やくいもん)といわれる山門が建っています。
写真ではちょっとわかりにくいですが、表札には「吉良家菩提寺」と堂々と書かれています。
寺自体はさほど大きくはありませんが、何というか、凜(りん)としているのです。
吉良家の墓所を守る誇りが感じられます。
ちなみに山号の「片岡山」は「へんこうざん」と読むそうです。
今川氏の菩提寺とされる静岡市の臨済寺には残念ながらこのような表札はかけられていません。

片岡山 華蔵寺
慶長5年(1600)吉良義定公、妙心寺の高僧月舟禅師を請じて、吉良家菩提寺として華蔵寺を開基する。
当寺は、吉良家13代から18代までの墓を護る。
吉良氏は源家嫡流足利氏の名門で、鎌倉初期に足利義氏が三河守護になり吉良荘(現在の西尾市幡豆郡一帯)に住み、吉良を称した。
室町時代には有力大名の一として、常に室町幕府を支えた。
江戸時代には本高家に列し、その筆頭として栄えたが、不幸な元禄事件により断絶した。
(以下略)
吉良町教育委員会

以前訪れた時(10年以上前)は、確かこのような塔はなかったと思っていたところ、側面に「吉良上野介義央公300回忌記念」とありますので、2001年ころ建てられたようです。
それにしても「高家(こうけ)」という文字が何とも誇らしげではないでしょうか。
高家とは、江戸時代の役職であり、家柄を表すものです。
特に吉良家はその中でも筆頭格といわれていました。
今川家も高家の1つとして数えられましたが、そのことについてはまたあとでふれたいと思います。

この華蔵寺には吉良家の13代から18代のお墓がありますが、上野介義央公の5代前、つまり13代の吉良義安は、「駿河国藪田村(現在の静岡県藤枝市藪田)にて没」と書かれています。
これは当時(今川義元公のころ)今川家に人質として連れて行かれ、その地で亡くなったようです。
(他の資料では三河に戻ったとの見方もある)

吉良上野介義央公のお墓です。
なんといっても吉良家の中で一番有名な方のお墓ですが、先祖の方々や夭逝した実の子の方が墓石が大きくなっています。
これは義央公が亡くなった時点では家運が衰退したしたためとされています。

義央公の孫であり、養子になった義周(よしちか)公の墓石の隣にあった系図です。
このような説明文が各墓の横に建てられています。
ここにもさりげなく「名門」吉良家と書かれています。

華蔵寺の隣には、東条吉良氏の菩提寺である花岳寺(かがくじ)が建てられています。
吉良氏はその出発の時点で矢作(やはぎ)川を境に、東の東条吉良、西の西条吉良の二家に分かれました。
このお寺は義央公の先祖にあたる東条吉良氏の菩提寺です。

祥雲山 花岳寺 由緒
「往古、金星山と称する真言宗寺院の僧坊の一つであった。
貞和三年(1347)西尾実相寺より、佛海禅師が入寺開山され、臨済宗に転ず。東條吉良氏祖、尊義公山内に塔頭霊源寺と開基せらる。
大永五年(1525)東條八代吉良持広公講堂を再興、永禄七年(1564)家康公吉良氏との浅からぬ因縁により寺領三十六石を寄進せらる。
以下略
吉良町教育委員会

東条吉良氏の居城であった城跡を遠方から写したものです。

再建された物見櫓(ものみやぐら)です。
4月の中旬ですが、鯉のぼりが元気におよいでいて、桜もちょうど見頃でした。
中世の城跡としても貴重なもので、また公園としても眺めが良くて、とても良い場所です。

この東条城跡には句碑があるのですが、ふんふんと何気なく見ていたところ、なんとこれはこのシリーズの第1回で紹介した連歌師宗長の句碑でした。
おもいがけずに知った人に出逢ったようでうれしくなりました。
肝心の句碑のほうは写真をとったつもりがデータに残っていませんでした。
左の写真は句碑の横にあった説明文で宗長がこの地で連歌の会を開いたと書かれています。

華蔵寺の駐車場で見かけた義央公の像です。
このような赤馬に乗って領内を視察したと伝えられています。
ちなみに今川義元公の銅像はどこにも建てられていないと思いますが。

地元のお菓子の看板です。
「吉良の殿様よいお方 赤いお馬の見回りも 浪士に討たれてそれからは 仕様がないではないかいな」と書かれています。
それにしてもいたるところ、吉良様、きらさまです。

大正7年(1918年)にこの地を訪れた俳人村上鬼城(きじょう)の句
「行春や 憎まれながら 三百年」「お気の毒な吉良様 三百年もの間 世間では憎まれなされた あんなに名君でありながら」という言葉も紹介されています。

かなり多くのスペースを使って吉良氏の紹介をしてきましたが、これは1つ目には世間一般では評判の悪い吉良氏が地元では大変尊敬され、誇りに思われていることをぜひ知っていただきたかったということがあります。
写真にはありませんが、この日最後に訪れた吉良町歴史民族資料館の展示品は、その半数ほどが吉良氏関連の内容です。
吉良町という名前自体、昭和30年に周辺の町村が合併した町ですが、「吉良」という名前を選択したことで、この周辺の方々の「吉良」への思い入れが感じられます。
静岡でこのように今川氏が扱われる日がはたして来るのかというと、現状では大変疑問に思います。
2つ目は、今後また紹介させていただくこともあると思いますが、吉良氏と今川氏の切っても切れない深い関係が室町時代から戦国時代にかけて繰り広げられてきたことによります。吉良氏の歴史の中に今川氏が頻繁にでてきますし、またその逆もあります。
華蔵寺及び花岳寺(2つの寺は隣あっています)

名称 臨済宗妙心寺派 片岡山 華蔵寺
住所 愛知県吉良町岡山字山王山59(華蔵寺住所)
行き方 名古屋鉄道上横須賀駅から車で5分ほど
車なら東名高速道路音羽蒲郡ICから40分ほど
東条城跡はこの2つの寺から車で東へ数分のところです。
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小夜の中山

今川氏の初期の頃を紹介するには、この時代の背景をある程度知っていただく必要があると思います。
時代でいえば、鎌倉時代末期、南北朝時代、室町時代初期ということになりますが、ひとことでいえば、争いに次ぐ争いの時代であったといえます。
しかも昨日の敵は今日の友のように、激しく敵味方が入れ替わり、ありとあらゆる争いがありました。
その中で主な争いを表にまとめてみました。

事件名 年代 西暦 年代 和暦 幕府・体制側 相手方 今川家
元弘の乱前半 1331〜1332 元弘元〜元弘2 鎌倉幕府
足利高氏(尊氏)
新田義貞
後醍醐天皇
楠正成
 
元弘の乱後半 1332〜1333 元弘2〜元弘3 鎌倉幕府 後醍醐天皇
足利高氏
楠正成
新田義貞
 
鎌倉幕府滅亡 1333 元弘3      
建武の新政 1333〜1336 元弘3〜建武3      
中先代の乱 1335 建武2 足利高氏
足利直義(高氏弟)
北条時行
諏訪頼重
今川3兄弟の戦死
湊川の戦い 1336 建武3 後醍醐天皇
楠正成
新田義貞
足利高氏
足利直義(高氏弟)
高師直
室町幕府開設 1336 建武3      
観応の擾乱 1350〜1352 観応元〜観応3 足利尊氏
足利義詮(尊氏実子)
高師直
足利直義
足利直冬(尊氏実子、直義養子)

表題の小夜の中山は「さよのなかやま」と読みます。
国道一号線を島田方面から菊川方面に進み、トンネルを抜けると小夜の中山の表示があります。
地元では、強盗に殺された妊婦の魂が石に乗り移り、その石から子供が生まれ、やがてその子が親のかたきをとるという「夜泣き石」伝説で有名なところです。
左の写真は上記の表にある「中先代の乱」に関連する鎧塚です。
中先代の乱は、鎌倉幕府第14代執権北条高時の遺児北条時行が先代(北条氏)と後代(足利氏)の間に一時的に鎌倉を支配した反乱です。

鎧塚(よろいづか)
建武2年(1355年)北条時行の一族名越太郎邦時が、世に言う「中先代の乱」のおり京へ上がろうとして、この地に於いて足利一族の今川頼国と戦い、壮絶な討ち死にをした。
頼国は、名越邦時の武勇をたたえここに塚をつくり葬ったといわれる。

このあたりは、ハイキングコースとして紹介したい場所です。
尾根づたいに道がつづき、民家と民家の間に上記の鎧塚の他に、西行法師、徳川家康などにちなんだ旧跡があり、古くから様々な舞台になってきました。
この写真を撮ったのは茶摘みのシーズンで、週末だったので、一家総出で茶摘みをするシーンが見られました。

足利高氏(尊氏)を中心としてみれば、当初鎌倉幕府の御家人として、後醍醐天皇の倒幕勢力に対立していたものの、寝返って、鎌倉幕府を滅亡させる側になります。
さらに今度は後醍醐天皇側と対立し、建武の新政を崩壊させ、自ら室町幕府を開設します。
ところが今度は実の弟、息子と対立して(観応の擾乱)、さらには、極めつけは、京都から追放されて当時南朝にいた後醍醐天皇にいったんは降伏までします。
といった具合に主従の裏切りに始まり、果ては親子氏族内での醜い権力争いととなります。
ところで我が今川氏ですが、中先代の乱あたりから歴史の舞台に登場し、上記の争いの中ではことごとく、足利方のしかも尊氏側に立って戦います。
特に足利尊氏が弟の直義、実子の直冬と戦った観応の擾乱ではどちらにつくか、かなり迷いがあったようですが、(ちなみに本家筋の吉良氏は直義側につきます)尊氏側についています。
歴史の流れとしてはより主流側についたことになりますが、それは後からわかった話です。
室町幕府成立時から一貫して足利将軍側について戦ったことにより、今川氏はかなり幕府の信頼を得ていたものと思われます。

こちらは静岡市駿河区長田(おさだ)の「手越(てごし)河原古戦場跡」です。
ここは中先代の乱が収まった後、新田義貞(後醍醐天皇側)と足利尊氏との戦いの主要な戦場となりました。

由緒
昔の長田(おさだ)は安倍川と藁科川が自由に流れていた広い河原であった。
鎌倉時代の末この河原で度々戦が展開された。
中でも建武二年(1335年)12月5日、新田義貞と足利直義の両軍あわせて10万余の軍勢が正午から午後8時頃まで17回も激戦が繰り返され、此の戦いから650年に当たるのを機会に戦いに斃れた多数のこの碑を建てる。

昭和六十年十二月五日

三河で初めて今川を名乗った今川国氏、その子の基氏(もとうじ)についてはほとんど記録がありません。
基氏の子5人のうち、長男頼国(よりくに)、次男範満(のりみつ)、三男頼周(よりちか)の3人は中先代の乱で戦死しますが、一族から3人も戦死者をだしたことで、今川家の家名がいっきにあがることになります。
兄たちが亡くなったため、五男範国(のりくに)が今川家の家督をつぎます。
そして、通常この範国が今川家初代と数えられます。
ちなみに四男法忻(ほうきん)は出家して鎌倉において臨済宗の名僧となります。
範国は中先代の乱の後、遠江(今の静岡県西部地方)、続いて駿河(今の静岡県中部地方)の守護となります。

名称 小夜の中山
行き方 静岡方面からは国道1号線のバイパスを島田方面からトンネルを抜けてしばらくすると案内の表示があります。
また東名高速道路の掛川ICから30分ほどです。
なお、夜泣き石は国道1号線沿い(島田市から大井川を越えて、上記のトンネルの手前)と上記で紹介した鎧塚近くの久遠寺の2ヶ所にあります。
名称 手越河原古戦場碑
行き方 JR安倍川駅東口から徒歩で南に数分いった「みずほ公園」の中にあります。

次回は範国の墓所などを紹介させていただく予定です。

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今川義元公胴塚 大聖寺

このシリーズは少なくとも1ヶ月に一回は更新しようと思っていましたが、なかなかそうもいかず、申し訳ありません。
順番で行くと初代の範国公の続きを掲載する予定でしたが、9代義元公の墓所(胴塚)に行く機会がありましたので、先に掲載させていただきます。

愛知県豊川市のJR牛久保駅から500メートルほどのところに、今川義元公の胴塚といわれる墓所があります。
またこの近くはいくつかの史跡があり、武田氏の軍師山本勘助のお墓もあります。
桶狭間の合戦で敗れた今川軍が胴体だけの義元公の遺体を駿府に運ぶ途中、ここまできて遺体を葬ったと伝えられています。

墓所は大聖寺というお寺の境内の一角にありますが、寺そのものは小規模なところで、訪れた日には人の気配がありませんでした。

墓所の近くにはのぼりが立てられていて、有志の方が定期的に供養されている様子がわかります。

義元公の墓所(胴塚)です。
まわりもすっきりと整っていて、キチンと整備されているようです。
下記の説明文にある、「手水鉢」が残っているということでしたが、それらしきものはわかりませんでした。

今川義元公墓所
「戦国時代の駿河・遠江・三河の領主今川義元は永禄3年(1560)5月19日尾張桶狭間の合戦で織田信長の奇襲にあって討死しました。
その時、首をとられた義元の胴体を家臣が背負って当地まで逃れ、この寺に葬って、とりあえず石の手水鉢(ちょうずばち)をのせ墓石の代りにしました。
それが、「義元の胴塚」と言われる由来です。
嫡子上総介氏真は永禄六年(1563)父義元の三回忌をこの寺で営み、父の位牌所として寺領を安堵しました。
その後、墓は整備され、毎年義元の命日には、地元の人々により慰霊祭が行われています。」
豊川市教育委員会

義元公の墓所の隣に室町時代の武将一色刑部のお墓がありました。
今川家とのつながりは下記の説明文にはありませんが、こちらの墓所のほうが古いようなので、あえてここを義元公の墓所としたのかもしれません。

一色刑部の墓
室町時代足利の一族一色刑部少輔時家の墓である。
永享11年( 宝飯郡長山村に築城して一色城と称し、此処の窪地に大牛が横臥していた因縁により牛頭山大聖寺を城郭内に建て牛頭天王を祀った。
文明9年時家は豪臣波多野全慶に殺され、16年後には全慶も亦牧野古伯に討たれ城主は牧野氏となる。
永正2年古伯吉田城を築いて豊橋へ出て次男成勝を瀬木城より呼んで城主として。
之より牛窪城と改まる。

義元公の墓所の裏側は住宅が間近にありますが、一番近い家の表札を見ると何と「今川」でした。
後々ご紹介しますが、「今川」という家名は守護大名「今川」家の直系しか名乗れない家名なので、今川家とは直接の関係は無いと思いますが、興味深いものです。
あちこちの今川家関連の墓所を見ましたが、どうも静岡県内にある墓所はアピール不足というか、積極的に知らせたくないようにしているのか、と勘ぐらざるを得ないように感じてしまいます。
そこに行くと愛知県の今川関連の史跡は第2回のシリーズでご紹介した、西尾市の今川氏発祥の地のように市の観光史跡としてキチンとパンフレットにのっているし、その点静岡の関連史跡には大いに不満があります。

名称 大聖寺
行き方 JR飯田線牛久保駅から徒歩6分、車であれば東名高速道路の豊川ICから15分ほどです。
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福王寺

実に久しぶりの更新となってしまいました。
今回は今川氏初代の範国公の墓所を紹介します。

静岡県西部の磐田市にある風祭山福王寺です。
写真の時期と文書を書いている時期が異なるため、恐縮です。
この日は休日のため、多くの方が訪れていました。
この方たちのお目当ては、今川家の墓所?ではありません。
大半の方は寺の中にある庭園を目指していました。


寺の全景図ですが、今川家の墓所については何もふれていません。

実はこの寺は平安時代の陰陽師として有名な安倍清明ゆかりの場所です。
1000年以上前、この地に暴風雨があった際、全国行脚中の安倍清明が祈祷したことにより天候が回復したとされています。

ということで、あくまでこの寺は安倍清明ゆかりの場所で、ようやく左の写真の案内がありました。

墓碑に「伝」と書かれているので、あくまで伝承の墓所ということですが、600年以上前のことなので致し方ありません。

墓石を拡大しましたが、文字らしきものは見あたりません。

年配の方男性2人がこの場所を訪れていて、「範国って、今川の何代目だっけ」とか話していたので、「初代ですよ。初代!」と教えてあげようとしましたが、墓碑の側面に書かれていました。
「今川範国公は今川氏の初代で遠江、駿河の守護大名であった。
至徳元年(1384年)5月19日87才で歿した」私なぞはこのシリーズを始めるまでは今川家の初代のことなど全く知らなかったので、この方たちのほうがよほどましです。

ついでに、安倍清明の祈祷場所といわれるところにも記念碑があります。

範国公の歿した日は、能の大家である観阿弥と全く同じ日です。
両者の死に関係があるのか、興味深い(観阿弥は今川氏に暗殺されたといった説まであります)ところですが、今後の課題とさせていただきます。
毎回同じようなコメントで恐縮ですが、この寺でも今川家ゆかりの寺であることは宣伝されていません。
室町時代の大大名であった今川氏の基礎を築いた初代の墓があるところなので、もっとピーアールして欲しいと思います。
ところで、今川氏の墓所は各代ごとに分散していますが、初代の範国公が駿河の守護でありながら、墓所が遠江の磐田にあります。
この後、代を追って、墓所が静岡(駿府)に向かって移動していくのは興味深いことです。
守護といっても、初代のころは駿河のあたりにはまだまだ反対勢力が多かったようです。

名称 福王寺(風祭山)
住所 磐田市城之崎4-2722-1
行き方 JR磐田駅北口2番乗り場から、遠鉄バス城之崎方面行き乗車、「城之崎西」下車、徒歩約5分
車の場合、東名高速道路磐田ICから10分ほどです。
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